わたしたちの南大東村3年4年合冊版
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陸や菜むえ右半置開住者いち地作縄県0(明治33)●↑ ■イ 大正時代のサトウキビの積つみこみ作業 鉄道(シュガートレイン)が見える●↑ ■ア 南大東島の人口のうつり変かわりさいもんはんおきたまじょうりくとうじんせいさんせいとうてんかいじゅうしゃみんこうさくおきなわけんけいえいきょうとう(人)500040003000200010002902319003701034407401542205211926(年)(大正10)188「23人だった人口が,1921年には4407人にふえているよ。」した開たく民は,無産開たくを玉置商会として事業を進糖事業を広げていきます。しかし,め,サトウキビの生1910年に玉置半右衛門が病気でなくなると,次第に事業経営がきびしくなってきました。そのため,玉置商会の事業は,1916年には東洋製糖へとうつされました。人島や製があったようです。も,5年後の1905年には422人にふえました。島では畑を広げ,米や野が広げられ鉄道がつくらされます。1926年には,島の人京から2742人,東島の開たくは,どのようにして進められたのだろう。23人で上,サトウキビなどの作物も多くとれるようになりました。玉衛門製糖会社へ経営がうつると,耕れるなど,事業が大きく展口も4015人にふえていますが,沖からも1024人の移ふるさと文化センターの係の人の話南大東島の発はっ展てん

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