南大東島ホームページ

最終更新日 2020年9月10日

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歴史

 

未開拓時代
古来南大東島は、琉球人の間でウフアガリ島として知られていたそうであるが、明治18年沖縄県庁の探検により日本国標が建てられ、沖縄県に所属した。それにより数年を経て6名の者により開拓が試みられたが、島の周辺が険峻にして上陸できず断念する者、上陸はしたが物資を放置して引き返す者、未着手のままで断念する者等、いずれも失敗に終わった。

◆1820年(文政3年)

ロシア海軍佐官ポナフィディン氏、南大東を発見。サウスボロジノ島として命名する。

◆1853年(嘉永6年)

米国水師提督ペリー一向が来航したもよう。(注:後年発掘された砲弾鑑定により推察)

◆1885年(明治18年)

日本国は沖縄県に対し大東島取り調べを命じ、結果大東島は日本国沖縄県下に入る。
 

開拓者
玉置半衛門 玉置氏の略歴

天保9年10月1日東京の八丈島・大賀郷村に生まれ、海外雄飛の気性に富み、明治12年八丈島に絹織業を始め、明治20年鳥島を開拓し、羽毛の採取によって一躍巨万の富を積む。明治31年所有船第一回洋丸を派遣して、ハワイ・東シナ海・フィリピン・琉球諸島を視察した。同年、遠洋漁業で琉球方面に出漁中、大東諸島を発見。事業欲旺盛な玉置氏は、この島の開発に着眼したのである。

 絶海無人の島を開発する事4島。(鳥島・南大東島・北大東島・沖大東[ラサ島]) 明治43年鳥島に渡航し帰途船中にて発病。同年11月1日東京にて死す。享年73歳。 裸一貫で日本の実業界に君臨し、波乱に満ちた生涯を閉じた。
 
開拓の歴史・背景

◆1900年(明治33年)

宿舎の建築。 そ菜類・穀類等の播種を始める。池を発見し水の不安が解消。

◆1901年(明治34年)

開拓入植以来、始めて出生児ある。

◆1902年(明治35年)

刈り取り
8人交替の人力で甘蔗を圧搾し、黒糖80俵を製造。(製糖の始め)

◆1908年(明治41年)

(南大東校の創始)民家に子弟78名を集め教育を行う。それ以前は小島徹三氏が医業のかたわら自宅で塾を開いて寺子屋式の教育を行っていた。

◆1917年(大正06年)

国より玉置商会が南大東を払い下げる。

◆1918年(大正07年)

玉置商会より東洋製糖会社へ南大東島を売り渡す。(半右衛門の死没後は長男の鍋太郎、次男鎌三郎、三男伝の3人の息子が遺産を相続し、家督は長男鍋太郎が継承し2代目半右衛門を名乗ったが、長男鍋太郎は実業家としての手腕がないばかりか、放とう三まいにふけり、加えて兄弟間の財産分割争いなどにより、玉置商会の事業は極度に不振におちいり、大正の大財閥といわれた神戸の鈴木商店の斡旋で製糖事業・大東島の土地所有権を売り渡した。)

◆1946年(昭和21年)

村制施行、南大東村と呼称。(それまでは玉置・東洋・日糖と経営支配下にあった)

◆1964年(昭和39年)

地元村民に土地所有権認定の発表。

◆1967年(昭和42年)

民間航空路開通(エアーアメリカ社10人乗り)

◆1976年(昭和51年)

簡易水道事業・給水開始。

◆1987年(昭和62年)

NHK衛星放送・テレビジョン24時間放送開始。

◆1989年(平成元年)

新南大東空港建設促進住民大会開催。南大東漁港建設工事起工式。

◆1996年(平成8年)

「教育立村宣言」私たち南大東村民は「人材をもって資源となす」を村是と定め、学校・家庭・地域それぞれが、お互いの立場を尊重し、教育の向上に努めましょう。
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